ゼロの日常を受け入れられない方達へ

半年以上を経て、新作映画の情報も公開されて、スピンオフに物申していた方々が落ち着いたかと思えば、そうではないのが実情らしい。

ふと何してるのかなと思いふらりと見に行ったら、私のこと(だと思った。自過剰だったら恥ずかしい)を思い出してくれていて、未だに同じことを繰り返し仰っていたので、ただただすごいなーと感服した。

私も、新作映画の情報公開、金ローの過去作放送投票を経て、思うところができたのでそれをつらつらと吐き出させてもらいたい。

繰り返しになるが、世の愚痴垢と呼ばれる方々にお願いしたいのは以下の点だ。

・人の価値観を公開垢で貶さないで欲しい。

・スピンオフ作者さんに公開垢で失礼なことを言わないで欲しい。

 

《映画の評価は相対評価となるのでは?説》

過去劇場版作品の投票に湧き上がったTLを見た。

それを見てたくさんの作品がある中で、やはりそれぞれにナンバーワンの作品があることを感じた。

そこで私はようやく思い至ったのだが、世の中には初期作品を見たことがない方達がいるのだ。

長い作品なので、当然物心ついて初めて見た作品が10作品目ということもあるだろう。

そういった方達にとって、その最初に見たコナン劇場作は非常に印象深いものとなっただろうと想像する。

そして、その後に見た作品が最初に見た作品を基準として相対的に評価されるケースもあるのではないかと考えた。

正確な統計をとったわけではないので実際がどうなのかはわからないが、アニメ放映当時から見ているような方達は初期劇場版作品が好きな方が多いように感じる(今回、1位が瞳となったのは情報が発信されたツイッターにおいて初期作品をよく見ていた20〜30代が人口として一番多いからではないかと想像している)

一方で最初に見た作品がn作目という方は、それが好きと仰る印象だ。

純黒で活躍する安室さんを見て出戻ってきたという方や、安室さんが好きな方は当然純黒の悪夢を大変評価する。好きなキャラが活躍してたら、そりゃ評価する。わかる。

強烈な印象を植えつけられた作品が、後から見た作品の評価の基準となる説である。

それを踏まえると、初期の作品を好きな私が最近の作品を評価できない理由は実にわかりやすい。

どうしても昔と比べてしまうのである。老害、懐古厨と罵られて然るべきと自負している。制作陣にも本当に申し訳ない。だがやはり、昔はよかった…!!!と思ってしまう。

ただ最近の作品から入った方からすれば、昔の作品は展開がもったりしているとか、アクションがなくつまらないとか、そういった感想もあることだろう。

まぁ言うてしまえば、バイアスというものだ。

 

《スピンオフ作品とは》

スピンオフ作品は原作者以外の方の手で描かれ、原作者のGOサインで世に出てきたという点で映画と本質を同じくするメディアミックス作品である。

だが、映画は評価できてスピンオフは評価できないという方が見られた。

前述した強烈な印象を与えられた映画が評価の基準となるために評価できないということではないかと想像した。

いかがだろうか。

 

先だってより述べているように私は初期作品が最高峰と信じてやまない厄介なやつだ。

というより、昨今のコナン劇場版を楽しめない可哀想なやつだ。

私にとって、あくまで私にとって、アクションに比重が置かれストーリーがペラッペラの劇場版作品が喜ばれている現状は憂鬱なものだ。どうせまた今年も腹を立てながら演出は良かった!!!と言いながら劇場から帰ってくるのだ。世の中は面白かった!って喜んでいるのに、私はどうせ喜べないのだ、むっちゃ損してる気がする。まぁそれは置いておいて。

この構図をどこかで見たことはないだろうか?

スピンオフの様子がおかしいともっぱらの噂の安室さんを憂い、TLで嘆いていたあなたとどこか違うだろうか? 私は結構似通っていると思うのだが、どうだろうか?

 

半年以上経ても、いまだにスピンオフのことを恨む気持ちはわかる。

だが、世の中には色んなナンバーワンがある。

他者のナンバーワンを重んじることは本当にできないのだろうか、どれだけ大切か想像はできないのだろうか。

そして、国民的人気作品の看板を背負って沢山のファンに応えなければならないスピンオフ作者さんの心労は想像できないものだろうか。

安室透像が軽んじられたと感じるのであれば、その安室透像はどこから生じているのか、その安室透像はコナンファン全員に共通するのだろうか。

何をもってしてスピンオフ作品を糾弾するのか。その大義はいかようなものなのか。

ツイッターで全世界に発信していい内容なのか、あなたの人間性を貶めてはいないか。

その言葉は本当に公開しなければならないのか、鍵垢で吐き出してスッキリするのも手ではないか、何故公開する必要があるのか、どんな反応を期待しているのか。

今一度考えてみて欲しいけど、それができたらここまで拗れんわなと思いつつも書いてみました。

 

ここで私一個人が純黒とゼロシコのことを評価できないと言ったが、それについては色々な方々に申し訳ないと心底思っている。

某脚本家さんが今回筆をとっているのも世の需要があって多くの人が楽しみにしていることを感じるし、あくまで一個人として現状大きな不安を抱えてはいるが、こうなったら私ごときがブツクサ文句を言ってもどうにもならないことである。

彼が関わった作品郡を評価している方々を貶めるような意図は一切ないし、他にオープンな垢でこういったことを書く予定もないので、何卒ご容赦お願いします。あくまで私個人の感じ方の問題なのです。

相対評価云々に関しても私が勝手に感じたことなので一切根拠はありません。年代別ランキングなんかがあったら面白い結果にならないかなーなんて思います。

何だかんだ言いますが、新作の公開は楽しみです。よりよいSNSライフを送れますよう。

ゼロティ(ゼロの日常)における解釈違いが発生する原因考察

前回の記事から、また色々なご意見を拝見した上で自分なりに考察したことを

ぼやきます。

先の記事の考察が少し増えた程度のものです。

解釈違いがどこから何故発生したのか、ご一考の足しになればと思います。

 

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キャラ解釈のアプローチの仕方一例


《キャラ解釈のアプローチについて》

キャラを解釈する材料として存在するのが、

①原作

に加えて、

②アニメ ③映画

といったメディアミックス作品になります。

メディアミックス作品は他にも特別編、小説、ゲーム等もあるかと思いますが、

ここでは割愛します。私自身が恥ずかしながらわからないので…。

 

以上を踏まえると、キャラを解釈していくにあたって存在するアプローチは

1.原作のみ 2.アニメのみ 3.原作+アニメ

4.アニメ+映画 5.原作+アニメ+映画 6.原作+映画 7.映画のみ

という7つになるかと思います。

 

《『ゼロの日常』の性質》

ここでゼロティという作品を見ると、原作からの派生作品ではありますが、

A.青山先生の蔵出し設定

B.新井先生の安室さんと風見さんの解釈

以上、2点の付加要素が存在するかと思います。

Aについては青山先生がキャラクターを考案するにあたって

元々もしくはふと思いついていたけれど、原作に登場させてこなかった

裏設定といったものと考えます。

Bについては新井先生のコナンキャラクターへの解釈そのものです。

 

《解釈違いの元》

考えられる解釈違いの元は以下の通りです。

 

まず、私はツイッターで他の方々のご意見を拝見していて

以下に気づかされました。

(あくまで私がツイッターを拝見して見えた範囲のご意見に基づく気づきです)

・解釈違いと指摘されたり、戸惑われる話は概ね青山先生のプロット回である

※プロット回を参照させて頂きました。

dc-scarlet.net

つまり、原作に登場していなかった安室さんと風見さんの裏設定を

青山先生が盛り込んで下さったことから解釈違いの元が生まれたのではないか

という推測ができます。

 

また、新井先生がゼロティに盛り込んだ設定(ハロや助手席で寝てしまう風見)

についても「公安警察らしからぬ」といった解釈違いであるという

ご意見を拝見しました。

 

後は先の記事で述べたようにクールでかっこいいエリート公安警察官として

描かれていないというご意見ですね。

 

《解釈違い発生の可能性》

どのアプローチから安室さんと風見さんを解釈していても

突然の蔵出し設定等の登場によってゼロティとの解釈違いが起こる可能性は

あるのですが、やはり解釈の材料に映画を取り入れている方のほうが

解釈違いに苦しまれているように見受けられます。

 

それは先に述べた解釈違いの元の内、

青山先生の蔵出し設定も新井先生の解釈も原作からの地続きの要素であり、

映画で描かれた通りの「クールでかっこいいエリート公安警察官」である

2人が介在していないからであると考えます。

 

《むっちゃくちゃ私見

ツイッターを徘徊していて「映画だって青山先生がネタを

提供しているんだろ? 同じ時間軸と捉えるべきだろう」といった

ご意見を拝見したのですが、

ぶっちゃけマジで切り離した方がいいと私は思う。

青山先生が提供しているネタは当然コナンの設定として捉えていいと考える。

けれど、映画はほぼなかったことになる。

先の記事でも述べたけれど、時々、極々稀に原作に映画の話が

出てきたりするけれど、本当にそんなことは滅多にない。

紅葉ちゃんは映画にも原作にも出てきてる超超超稀有な例と思いますよ。

映画いっぱいやってるし、青山先生がネタ提供してても全部考えたわけではないし、

原作に取り入れる必要がないものね。

サービスで赤井さんの復活を匂わせたりとか、そういうことはあるけれど、

あれもただのファンサービス(ありがたいですね)

まじで思い当らないんですけど、原作に出てくる映画の話って何がありました?

 

《最後に》

結局、また結論は映画の時間軸を排除してはどうかという話になります。

結論ぶん投げにも程がある。

けれど、原因がそれしか考えられないんですよね。

ゼロティでゼロシコの話がポロポロ出てくるから混乱するけれど、

うまいこと映画を原作とは別物と考えると色々なことが納得できる…

かもしれない。

 

逆に新井先生がプロットを担当されている1巻を見直すと、

ゼロシコっぽい雰囲気の漂う話が多くて、新井先生がいかに気を遣って

90億の男を描こうとしていたかが伝わってきました。勝手な憶測ですが。

 

やはり人の数だけ解釈があって、方向性がここまで違うと素晴らしいというか、

実に面白いなという気持ちです。

先の記事では強い言葉を使用してしまいましたが、

作品の解釈は人の自由だよなぁ私がああだこうだ言うべきでないなぁと

反省しました。

 

ここで述べたのは解釈違いが生まれる原因についての私なりの考察です。

スピンオフの方向性は今のままで変わることはないでしょう。恐らく。多分。

そもそも、これまでのゼロティで描かれてきた安室さんと風見さんが原作サイドの想定したものであるなら、変えようがない。

であれば読者が順応するしかないと私は考えます。

私は純黒とゼロシコの安室さんと風見さんが好き!でも、スピンオフは解釈違い!

という方の落としどころを見つける一助になれば良いのではないかと思います。

 

ゼロティ(ゼロの日常)が炎上していると聞いて私が申し上げたいこと

ゼロティが炎上していると聞きました。
https://togetter.com/li/1355894
ツイッターで色々ご意見を拝見しましたが、自分が見た範囲では、
・風見さんの露出が多過ぎる(安室さんのスピンオフじゃないのかよ!)
・安室さんと風見さんのキャラが解釈違いである。
という意見を拝見しました。
これに対して、ずっと燻らせていた思いがあるので、ここにぶちまけたいと思います。

 

《安室さんの描画範囲について》
安室さんというキャラクターは本編の進行上、どうしても描ける範囲に制限が出てくるキャラクターだと思います。

それをゼロティの中でカバーしていくために風見さんが上手く使われているなと私は感じています。

ただ、人によっては風見さんばっかり取り上げられていると映るかもしれません。

安室透というキャラクターが紐解かれない以上、こればかりは仕方ないと考えます。

 

《キャラクターの解釈違いが生じる原因》

2人が登場する純黒、ゼロシコを見ると、2人はクールでかっこいいダークなエリート公安警察官として描かれています。

しかし、私はこれがゼロティとの解釈違いを生む原因であると考えています。

映画で見たようなクールで公安を体現したようなグレーゾーンを潜り抜けていく危険な香りのする安室さんや風見さんが原作で描かれているかもう一度確認して頂きたい。
何かそれっぽいことしてます? 私、ゼロシコの公安お得意の違法作業? みたいなことしてるというか、公安警察然としてる怖い顔した安室さんを原作で見たことないと思うんですよ(赤井さんの前では怖い顔してるかな…あ、盗聴はしてますかね…) 風見さんは原作で出番がほぼないので割愛。

※※(余談)なんだったら既存キャラクターが解釈違い※※

純黒、ゼロシコの脚本を書かれている方の他のコナン映画作品である絶海と向日葵を合わせた全4作品のコナン映画なんですが、正直私から言わせて頂きますと既存キャラクターが解釈違いなんです。

今日ゼロシコを見ていて感じたキャラクターに関する違和感だけでも、ザッとこれだけあるんですね。

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ゼロシコの解釈違い箇所

率直に申し上げて、脚本家の方とキャラ解釈がこれだけ違うと、安室さん風見さんのキャラ解釈も私とは違ってるやろと断じざるえない。

https://mantan-web.jp/article/20130422dog00m200002000c.html

このインタビュー記事を拝読しても、コナン作品への理解の浅さを感じる(各キャラクターのエピソードをたくさん見せてもらったとか、最初から見ていたわけではないとか)

テーマをもってしても、イージス艦にしても公安警察にしても相棒とかでやってどうぞという感じがすごい(コナンとして新しい切り口ではあったけれど、作品が料理しきれていない時点で失敗だったと私は思う。あくまで主観で申し訳ないですが)

 

《原作、作者インタビューから解釈する安室透というキャラクターについて》

シクアカで青山先生が仰っていた「(安室さんのトリプルフェイスの内、どれがお気に入りか?という問いに対して)うーん…全部かな?(中略)どの顔も安室ですよ」というお言葉や、
好きな子のタイプだったら「しゃべりまくってても嫌がらない人」ですとか、
伊達さん曰くのところ「自分の力を過信して無茶してどっかでおっ死じまってるかもな」とか、
そういう情報を統合したとき見えてくる降谷零という人間は恐らく、普段見せてるあの顔が割と素で、うんちくを語って聞かせるのが好きで(『謎解きは喫茶ポアロで』で13日の金曜日について突然語ってくる場面が、その最たる例だと私は思っている)、スペックの高さ(青山先生曰くできないことないらしいし)ゆえに一人で邁進ぎみな一面のある男だと思うんですよ。
あくまで私の降谷零という男に関する解釈なんですが、この解釈でゼロティと解釈違いを起こしたことはありません。むしろ週を追うごとに説得力が増していくんですよ。

青山先生のプロットがあるという点からみても、先生が想定した安室透というキャラクターはゼロティに描かれている通りなのではないでしょうか?

ゼロの日常という作品で安室さんは常に誰かをこっそり手助けする陰のヒーローとして描かれています。

夜想曲で毛利先生が推理したことに仕立て上げようとしたり、宅急便の話で偶然居合わせただけだよなんて帰っていく、常に誰かの陰にいようとした安室さんを思い出すと納得できます。
むちゃくちゃかっこよくありませんか? 自分がやりました! なんて絶対に言わないんですよ。上手いこと立ち回って相手を立ててくれるんですよ。安室透むっちゃかっこいいじゃありませんか…。ゼロの日常、安室透の魅力が詰まってるじゃありませんか…。

 

《以上を総括して》

これは役に立つかわからない助言ですが、これからもゼロティを読みたいのであれば映画の時間軸はできるだけ排除して読んではいかがでしょうか。

それが解釈違いを起こさない肝であると私は考えます。
いくつものインタビューでお答えになっているように、青山先生は映画にネタを提供しているから、そういったネタが原作で時々出てきたり、思いもよらないところでキャラ同士の会話にポツリと映画の話(通天閣にキッドが立ってた云々)が出てきたりしますが、基本的に原作と映画は別物と捉えた方がいいです。絶対いい。


自分が見たいコナン世界が純黒やゼロシコのそれであれば、ゼロティは読むべきでない。

ただ、そういった方達もこれから原作新刊を読み進めていく内に思いもよらない展開が待ち受けているかもしれません…。

 

お目通しありがとうございました。