ゼロティ(ゼロの日常)における解釈違いが発生する原因考察

前回の記事から、また色々なご意見を拝見した上で自分なりに考察したことを

ぼやきます。

先の記事の考察が少し増えた程度のものです。

解釈違いがどこから何故発生したのか、ご一考の足しになればと思います。

 

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キャラ解釈のアプローチの仕方一例


《キャラ解釈のアプローチについて》

キャラを解釈する材料として存在するのが、

①原作

に加えて、

②アニメ ③映画

といったメディアミックス作品になります。

メディアミックス作品は他にも特別編、小説、ゲーム等もあるかと思いますが、

ここでは割愛します。私自身が恥ずかしながらわからないので…。

 

以上を踏まえると、キャラを解釈していくにあたって存在するアプローチは

1.原作のみ 2.アニメのみ 3.原作+アニメ

4.アニメ+映画 5.原作+アニメ+映画 6.原作+映画 7.映画のみ

という7つになるかと思います。

 

《『ゼロの日常』の性質》

ここでゼロティという作品を見ると、原作からの派生作品ではありますが、

A.青山先生の蔵出し設定

B.新井先生の安室さんと風見さんの解釈

以上、2点の付加要素が存在するかと思います。

Aについては青山先生がキャラクターを考案するにあたって

元々もしくはふと思いついていたけれど、原作に登場させてこなかった

裏設定といったものと考えます。

Bについては新井先生のコナンキャラクターへの解釈そのものです。

 

《解釈違いの元》

考えられる解釈違いの元は以下の通りです。

 

まず、私はツイッターで他の方々のご意見を拝見していて

以下に気づかされました。

(あくまで私がツイッターを拝見して見えた範囲のご意見に基づく気づきです)

・解釈違いと指摘されたり、戸惑われる話は概ね青山先生のプロット回である

※プロット回を参照させて頂きました。

dc-scarlet.net

つまり、原作に登場していなかった安室さんと風見さんの裏設定を

青山先生が盛り込んで下さったことから解釈違いの元が生まれたのではないか

という推測ができます。

 

また、新井先生がゼロティに盛り込んだ設定(ハロや助手席で寝てしまう風見)

についても「公安警察らしからぬ」といった解釈違いであるという

ご意見を拝見しました。

 

後は先の記事で述べたようにクールでかっこいいエリート公安警察官として

描かれていないというご意見ですね。

 

《解釈違い発生の可能性》

どのアプローチから安室さんと風見さんを解釈していても

突然の蔵出し設定等の登場によってゼロティとの解釈違いが起こる可能性は

あるのですが、やはり解釈の材料に映画を取り入れている方のほうが

解釈違いに苦しまれているように見受けられます。

 

それは先に述べた解釈違いの元の内、

青山先生の蔵出し設定も新井先生の解釈も原作からの地続きの要素であり、

映画で描かれた通りの「クールでかっこいいエリート公安警察官」である

2人が介在していないからであると考えます。

 

《むっちゃくちゃ私見

ツイッターを徘徊していて「映画だって青山先生がネタを

提供しているんだろ? 同じ時間軸と捉えるべきだろう」といった

ご意見を拝見したのですが、

ぶっちゃけマジで切り離した方がいいと私は思う。

青山先生が提供しているネタは当然コナンの設定として捉えていいと考える。

けれど、映画はほぼなかったことになる。

先の記事でも述べたけれど、時々、極々稀に原作に映画の話が

出てきたりするけれど、本当にそんなことは滅多にない。

紅葉ちゃんは映画にも原作にも出てきてる超超超稀有な例と思いますよ。

映画いっぱいやってるし、青山先生がネタ提供してても全部考えたわけではないし、

原作に取り入れる必要がないものね。

サービスで赤井さんの復活を匂わせたりとか、そういうことはあるけれど、

あれもただのファンサービス(ありがたいですね)

まじで思い当らないんですけど、原作に出てくる映画の話って何がありました?

 

《最後に》

結局、また結論は映画の時間軸を排除してはどうかという話になります。

結論ぶん投げにも程がある。

けれど、原因がそれしか考えられないんですよね。

ゼロティでゼロシコの話がポロポロ出てくるから混乱するけれど、

うまいこと映画を原作とは別物と考えると色々なことが納得できる…

かもしれない。

 

逆に新井先生がプロットを担当されている1巻を見直すと、

ゼロシコっぽい雰囲気の漂う話が多くて、新井先生がいかに気を遣って

90億の男を描こうとしていたかが伝わってきました。勝手な憶測ですが。

 

やはり人の数だけ解釈があって、方向性がここまで違うと素晴らしいというか、

実に面白いなという気持ちです。

先の記事では強い言葉を使用してしまいましたが、

作品の解釈は人の自由だよなぁ私がああだこうだ言うべきでないなぁと

反省しました。

 

ここで述べたのは解釈違いが生まれる原因についての私なりの考察です。

スピンオフの方向性は今のままで変わることはないでしょう。恐らく。多分。

そもそも、これまでのゼロティで描かれてきた安室さんと風見さんが原作サイドの想定したものであるなら、変えようがない。

であれば読者が順応するしかないと私は考えます。

私は純黒とゼロシコの安室さんと風見さんが好き!でも、スピンオフは解釈違い!

という方の落としどころを見つける一助になれば良いのではないかと思います。